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コラム
/ 名越武芸帖 / 其の十八 テレビゲームとは一体誰のものなのか?
其の二十七 15年で手に入れたもの
其の二十六 語り合ってる?
其の二十五 新たなギャップ
其の二十四 ゲームの暴力性
其の二十三 ライセンスの普及とゲームのエンターテイメント性の限界
其の二十二 経営と制作のギリギリ
其の二十一 チームで仕事をすること
其の二十 20回目を迎えるにあたって
其の十九 未来のクリエーター達へ
其の十八 テレビゲームとは一体誰のものなのか?
其の十七 CPU戦と対人戦(その2)
其の十六 CPU戦と対人戦(その1)
其の十五 スパイクアウトの思い出
其の十四 そういえば、業務用って…
其の十三 ゲーム制作の才能
其の十二 難しさと面白さ
其の十一 アナログコミュニケーション(伝えましょう・その2)
其の十 ゲーム機の未来
其の九 今の気持ちとこれからの気持ち
其の八 ネットゲーム普及のために
其の七 ゲーム成立の条件
其の六 「良い」という感性について
其の五 インタラクションとキャラクター
其の四 これからのゲーム
其の三 企画より大切なもの
其の二 新しさの意味
其の一 ゲーム成立の条件
其の十八 テレビゲームとは一体誰のものなのか?
今回は先日あるインタビューで答えたことからきっかけにした非常にシンプルなテーマです。
相変わらず理屈っぽい俺の文章ですが、今回はリラックスして行きましょう。この読者ならそんなこと言われなくても知ってるよ。という内容が多いですが、原点に戻る気持ちで読んで下さい。
さて、表題の問いに対して皆さんはどういう回答を出しますか?
「子供のモノ」とかいう意見が多いんでしょうかね。そもそもテレビゲームというモノは昔は玩具から成長してきたという径路を見ると、以前は明らかに子供のものだったと思います。子供の行う「遊び」の延長線上に位置し、中でも屋外遊びではなく屋内遊びの一つとして、トランプやモノポリー等の仲間のように、テレビ画面とコンソールを用いた手段であるところからスタートしました。
ただ革新的だったのは「ソフト」という概念が存在として強く感じられた初めての商品だったということ。それまでも何か一部を買い足して、入れ替えたりすることで遊ぶ商品はありましたが、ファミコンタイプのモノが出たときの衝撃と誤解はかなりのものがありました。
買ったとき、友人からよく聞かれました。「それ(ハード)買えば何コ遊べるの?」とか「それだけじゃ遊べないの?」とかね。その度に「ビデオとビデオソフトと同じことだよ」と答えていた記憶があります。そしてあくまで子供のモノからスタートした以上、そこに根ざしたソフトの内容も当然子供向きモノ….と言いたいところですが、現実は違いました。
遊技内容はシンプルではありましたが、子供向けと呼ぶにはいささかずれていた点が多かった気がします。例えば難易度。今思えばとても難しいです。この頃にもマンマシーンインターフェイスの概念は存在してはいましたが、そこで展開されたものは子供向きとは言い難かった。更にゲームの内容。これもハードの表現力の限界というものが当然あったにしても、向いている方向が子供よりとは言い難く、表現力の問題だけではなかったと思います。つまり、最初の時点では子供のモノとして出発しておきながら、ゴールは子供に向いていなかったと言えます。きっと、初めて触れるものへの不可思議な存在感が「テレビゲームで遊ぶということは、こういうものである」という変な価値観を開発者も、そしてプレイヤーも、勝手に構築していったせいではないか?と考えます。インベーダーゲームから受け継がれた意識なのかもしれません。
そしていくらか時間が過ぎ、ある日革命が起きます。その革命はハードが変わったことでも、目覚ましい新しい技術が付け加えられたわけでもありませんでした。その革命の主人公は兄弟でオーバーオール姿にヒゲを生やしており、イタリア人の名前で呼ばれていました。革命家は以前のそれらと全ての面で超越していました。鮮やかな色みの背景で、走り、岩を砕き、土管に入り、泳ぎ、ジャンプをしました。またジャンプに至っては、空中で任意に微妙な向きを変えられることも可能としていました。また、彼の運動性能をいかす形で計算されつくしたマップ上を、縦横無尽に冒険をさせることが可能な革命家でした。その革命家兄弟は後々スーパーマリオブラザーズと称されていくわけですが、マリオが起こした革命のポイントは色々ある中で、俺からすれば一番は「子供が楽しく遊べること」にフォーカスした作り込みでした。操作、難易度構成、グラフィック、サウンド、インターフェイス、全てにおいて本来は目指したはずだったのにも関わらず、それまで置いてきぼりになりがちだった子供に重心を置いた商品だったことがとにかく大きかったと思います。
そしてゲーム本来のお面白さのトラウマにさらされた子供たちは病みつきになり、遊びのスタイルとして定着し、さらにセガやNEC等もその子供たちの成長に合わせるように商品に対象年齢の幅を出すことを考え、また幅の広がりに全く新たなものを大衆が求めていることを察知したSONYがハードとマーケティングの新提案を行いつつ、業界は発展していきました。つまり子供からしっかり狙って起きた革命のインパクトが大きすぎて社会的な話題にもなり、2番手以降のターゲットだった、いや、ひょっとしたら全く眼中にもなかったかもしれない(勝手な想像ですが)大人までもムーブメントに巻き込んでいったのではないかと思います。任天堂がなぜあれだけのシェアを最初に、そして一気にとることが出来たか?という理由はうなずけますよね。何度も言いますが、子供のためのものだということ哲学として、子供が喜ぶ形で供給することにフォーカスしたからです。俺が任天堂に敬意を表するのもそこです。
もし、現在のPSやX-BOXのスタンスからゲームの価値観が出発していたら、ここまでの広がりはあり得なかったと思います。でも、見てみたい気はしますね。どうなっちゃうんだろうなぁ?例えばもし仮に、ゲームは女子供の触るもんじゃない。(PSがX-BOXがそう言ってるという意味ではないですよ)というスタンスで売りに出したら…..なんて考えると、結構興味はありますよね。
ちなみによくゲームと映画は比べられがちですが、先程の流れで言えば映画は逆ですね。映画はもともとフィルムという純粋な記録媒体を用いて、作品としては記録映画からスタートしたぶん、大人に向けたモノを中心として成長を始め、最終的に、求められる欲求の幅の中から「子供向け」というジャンルマーケットが後からでき上がりました。そういう意味では歴史と文化が違うのもうなずけます。
では冒頭の質問に戻りましょう。まず、現在はどうなんでしょうか?ゲームキューブが子供中心、PSが対象年齢幅が広め、X-BOXがコアユーザー中心に受けていることは事実です。つまりユーザーには、ハードを選ぶことによって遊べるソフトがある程度変えられる土壌が提供されています。そして、それらが成り立ちつつある今、ゲームを求めている世代は着実に広がる傾向で変化しています。そして俺は常に考えていました。ここからの変化はどうなるのか?そして今は一つの答えを持っています。答えはまだまだ広がるということです。まず多極化というテーマにおいてもそろそろ競争が始まると思います。30代以上のゲームプレイヤーを大きなマーケットに成長させるのはこれからです。
なぜそう思うのかって?人間はエンターテイメントに対して卒業するという事はしない、いや、出来ないと思いうからです。多分今から30年、40年後、今テレビゲームで遊んでいる子供たちが大人になったとき、ジャンルやスタイルはともかくとしてもテレビゲームで遊びたいという意識が全く消えてしまうということはないと思うので、可能性が全くないとは言い切れないと思います。でもとにかくゲームを遊ぶ世代の発掘、再構築にしても。それに合わせたゲーム内容の対応についても。正直なところまだ結論は出ていません。それがハードによってターゲットにした年齢層や内容の傾向に対して二極化が進むのか?それとも全てのハードが性能は違っても幅広い年齢層を取り込もうとするのか?(現状はこちらのイメージに近い)の結果が出るはこれからです。でもどちらに進むにしてもテーマというか、重心や哲学がはっきりしていて欲しいですね。そのコンソールメーカーが提案しようとしている「考え」が何であるのか?と言う意味で。その哲学を通して、ソフトを提供するメーカーもどういう基準で参加すればいいのかがハッキリしていくのだと思うからです。ちなみに冒頭への俺の答えは「ゲームは皆のモノです」。それは事実だと感じています。ただ、その理由や経路をもう一度整理して今後のゲーム開発を考えていきたいと思っています。
なぜならそこら辺が今、あまりに曖昧になりつつあるような気がしているからです。曖昧だと、作り手も戸惑います。ユーザーも戸惑います。でもそれではせっかく成長してきたマーケットを崩していくことにもつながりかねません。ゲームとは一体誰のものなのか?この問いに対して、ゲームに携わる全てのメーカーがもう一度真面目に考える時期に来ているのではないでしょうか?ゲーム不況と言われる今、俺としてはその回答に、常にプライドと夢のある結論を導いていける業界でありたいと思います。ではまた。
『ゲーム批評』 2002年11月号掲載
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