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コラム
/ 名越武芸帖 / 其の二十四 「ゲームの暴力性」
其の二十七 15年で手に入れたもの
其の二十六 語り合ってる?
其の二十五 新たなギャップ
其の二十四 ゲームの暴力性
其の二十三 ライセンスの普及とゲームのエンターテイメント性の限界
其の二十二 経営と制作のギリギリ
其の二十一 チームで仕事をすること
其の二十 20回目を迎えるにあたって
其の十九 未来のクリエーター達へ
其の十八 テレビゲームとは一体誰のものなのか?
其の十七 CPU戦と対人戦(その2)
其の十六 CPU戦と対人戦(その1)
其の十五 スパイクアウトの思い出
其の十四 そういえば、業務用って…
其の十三 ゲーム制作の才能
其の十二 難しさと面白さ
其の十一 アナログコミュニケーション(伝えましょう・その2)
其の十 ゲーム機の未来
其の九 今の気持ちとこれからの気持ち
其の八 ネットゲーム普及のために
其の七 ゲーム成立の条件
其の六 「良い」という感性について
其の五 インタラクションとキャラクター
其の四 これからのゲーム
其の三 企画より大切なもの
其の二 新しさの意味
其の一 ゲーム成立の条件
其の二十四 「ゲームの暴力性」
反社会性がテーマのときに格好の材料となる「ゲーム」
最近よくゲームが子供達の暴力性に影響があるとハッキリ分かった。とかいう記事を見ます。
正直言って、意味もなく萎えるのを覚えます。なんて言うんだろうか、お節介で他人の悩みやトラブルを、さも意味のあることのように声高らかに発して「皆さん!大問題ですよ!」なんて言うおばちゃんってどこにでも居るじゃないですか。そういう人を見るに近い苛立ちを覚えます。
だって、当たり前じゃん!暴力シーンがあるものであれば小説であれマンガであれテレビであれ映画であれ、暴力性に影響は出ますよ。そりゃ当然。それを今更「大発見ですよ皆の衆!!」みたいに言われてもなぁ…。って感じです。
また、このテの話をする人達に対して共通に気になるのが、問題の事象だけを語るだけで、問題の根本を考え、同時に解決策や対応策を指摘しないところがあることです。「こういう問題がある。いったいどうしたモノか?」的な部分だけで終わってしまう人が日本人には本当に多い。
俺自身、もともと問題提起することのみにはあまり価値を感じない人間ですから、むしろお騒がせだけで終わる感じがして本当にもどかしい。まぁ言論の自由があってマスコミの存在意義には問題提起も含まれてるようですから仕方ない部分もありますけどね。しかしゲームってこういう反道徳的、反社会的という側面がテーマのときには格好の話題ですね。非行に走るとか頭がバカになるとかそりゃもう大人気。何だかここまで言われると自分の職場が極悪低脳集団のように言われてる気がします。もしゲーム大反対派の人の息子が「将来、ゲーム作る人になるんだ!」と、のたまったら激しく止めるんでしょうね。「ダメです!!タカシちゃん!」とか。でも「●ガはダメだけど●ニーだったらいいわよ。」なんてね。ハァ。。。冗談はさせておきこのテーマ、今回は私なりにまじめに語らせて頂きます。前半を読んだ人は、俺が「暴力性?なんぼのもんじゃい!」と思ってると感じた方も多いかもしれませんが、そんなことはないのであしからず。
生み出されるモノすべてに善の価値とリスクが存在する
では本題。まず冒頭でも述べましたが、ゲームにおける「暴力性」は確実に存在すると思います。それも独特の形で。単純な考え方ではありますが例えば人を殴る様子を表現する時、小説は文字のみであり最も間接的な伝え方となり想像を最も必要とします。漫画はそれに絵が加わることでビジュアルは想像の域を超え実際の様子を容易に見せることができ、そしてテレビ、映画は更にサウンドが加わることでビジュアルに臨場感を与え最も効果的に伝える事が出来ました。でも表現という意味ではここでいったん完成です。ここで忘れてはならないのがゲームはそれに加えて自発的に殴るという行為そのものに参加させることが可能となったということです。つまり表現の差、表現の進化というベクトルではなく、参加という全く違う次元の新たな意味が加わったことが問題だと認識すべき事が大切だと考えます。よく「ゲームは絵がリアルになって、それを自分で色んなことができるようになったから問題なんだ。」という事を言う人がいますがそれは間違い。リアルかどうかは漫画、映画と同じく「暴力性」を誘発させ、増長させるファクターには変わりありませんが、それそのものが問題ではないと考えます。例えばリアルな絵とサウンドで、相手の頭を殴ると、相手が「痛ぇ!」と言いながら顔を押さえるモノと、かわいい系アニメグラフィックと、いかにもゲーム的効果音で相手の頭を殴ると、相手が「ぐえェェェ!」と叫ぶと同時に頭が吹っ飛び首根っこから血が噴き出すモノを比べてみれば分かることです。表現内容の問題ですよ。あと強いて言えば作り手の狙い目の問題です。違うかなぁ?では「暴力性」の引き金になっている以上、リアルという進歩に大いに責任があったと仮定しましょうか。それでも俺自身はそれを否定、もしくは追放する気はありません。それは未来の否定につながるからです。
確かにゲームがもたらした良くないイメージは多いです。参加という新たな基準が生み出した「死ぬ」というフレーズがこれまた代表的に指摘されています。実際「死ね」という言葉を連呼しながら格闘ゲームをプレイする様子を見ていて、俺自身とても複雑な気分になったのも事実です。
でも子供の頃、ドッチボールしていて相手のコートにボールを投げつける瞬間にも「死ねやー!」なんて言ってた記憶ありませんか?であればこっちの方がよほど問題ですよ。だって実際の人間に向かって言ってますからね。これについてはどういう言い訳するんだろうか?「ボールで人は死なないから良いんだ」とでも言うのかな。だったらゲームでも死なないですよ。同じ。
だから俺はどうしても問題の焦点が「ゲーム」という新しい時代の落とし子の存在そのものに、全てすり替えられてしまっている気がしてなりません。ゲームという本質を理解すれば、今、「ゲームだから」という主語で語られている問題そのもののほとんどがゲームそのものに問題がない、もしくは問題の割合は低いことに気づいてくれると思います。でも理解できないのかなぁ。
でも思うんだけど、大人はどうして自分達の理解しがたい問題は、自分たちの時代になかったモノのせいにしたがるんでしょうね。若者がだらしないのは時代が便利過ぎになったからだ。何て言うじゃないですか。そういう人って。それが手っ取り早いからなのかなぁ。でもこの基準を浸透させるわけにはいきません。確かに便利すぎて横着になったのは自分でも感じるところですが、そのおかげで色んな恩恵を受けて、それを社会に還元していますからね。それが自然の流れですよ。でも今の大人もそのおかげで楽をしてるはずなんだけどなぁ。原発作ってエネルギーを得たり、ミサイル作って安全を得たりする時代は、今の大人が作ったモノですよ。そして原発やミサイルの無かった時代にもリスクと得るモノを秤にかける議論があったはずだし、それを乗り越えてリスクをとり、同時にリスクに負けない社会と人間を目指す決意をしたはずです。
そう。ここが大切だと思います。時代が生み出すモノには様々な側面が存在します。そしてこれには往々にして善の価値と同じくらいのリスクも存在します。
快適にもなり、凶器にもなる。ゲームも同じですよ。基本は参加して楽しむというエンターテイメントです。でも参加することで今まで以上にクローズアップさせることも出来る暴力性が生まれてしまった。これをしっかり認識して作り手が作品に向かう必要はあると思います。ある意味では、ゲームの持つ凶器性が上がった事への再認識とでも言うのでしょうか。そこは大切な認識でしょう。ですが遠ざけていくことで解決すべきではありません。文化的進歩さえ止める可能性もあります。文化とは生み出された成果物と、それを作った人間達が生み出したコミュニティーが一体となって形成されたときに初めて昇華します。ゲーム文化の進歩も同じだと考えます。
「暴力性」を全肯定するわけではない ただ、さまざまな側面から見てほしい
ちなみに言っときますが、俺は「暴力性」をただひたすらに全肯定するわけではないです。
俺はただ単にアクションの一部であったり、ゲームファンクションの一部でしかない、然るに単なるいたずらに射幸心を煽るとだけと認識されているゲームにおける「暴力」という扱いを、そこから脱皮させる努力をする時期が来た。ということを感じています。
暴力には色んな側面があります。動機もいたずらから始まり怨恨まで。内容も言葉から大量殺人まで。結果も様々。むなしい暴力。悲しい暴力。そしてちょっと語弊があるかもしれませんが生きる勇気を感じる暴力。全ては人間が起こしうる行為と結果です。どれに何を感じ、自分の中にそこから「暴力以外に何を見いだすのか?」それこそが最も大切です。そこをもっともっと大切に訴えましょうよ。
短絡的に表現が制限されるのだけは絶対に許せない。インタラクティビティーの進化の中から人間が得た新たな要素。参加するという要素。それを避けてねじ曲げてしまうのか?それをより高い認識をもって昇華させるのか?業界の未来の一端を担うこの議論。機械があったら更に語りたいところです。あなたはどう考えますか?ではまた。
ちょっと一服。
タバコは一日50本位吸います。
『ゲーム批評』 2003年11月号掲載
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