「現実的な判断」とは煎じ詰めれば「損か得か?」ということです。これは、ルールに則った経済活動の枠内で扱われている限りは、イデオロギーの介在を許さない相当に公平な判断基準だと思いますが、そのルールがひとたび曖昧になるや、「他者をだしぬき、自分が生き延びること」という動物化・本能化に結びつきます。現代は、この動物化・本能化が、もっともらしい正当性を持って緩やかに進行している時代だと私は考えています(ミクロには身近に氾濫している言葉やキーワードなど、マクロには国際情勢の進展などを考えてくだされば得心いただけると思います)。 ただし、それ自体が問題なのだとは思いません。懐古主義的な倫理基準を持ち出してこのような事態を収拾しようとすることは間違っているとすら思います。例えば携帯電話があるから最近の若者がどうとか言うのがナンセンスなのと同じで、科学技術の発展や生活の要求など多様な要素によって刻一刻と形を変えていく状況は常に不可逆なのであり、重要なのは、変化に対応し、しかも虚無主義に陥ることなく「よりよい人間らしさ」のヴィジョンを前向きに築いていけるか?ということなのです。それは社会性というものを持ってしまった人間という生き物の運命なのであって、むろんエンターティンメントといえども、そのヴィジョンの構築に参画することを免罪されるものではないはずです。 ですから、我々の仕事が、まさにこの時代を今生きるユーザーを相手に何かを表現しなければならないのなら、この身も蓋もなく、しかし羊の皮をかむるごとく静かに動物化していく世界に対して人間はどう向かい合うのか?そういうことをダイレクトに叩く物語、世界観を提示しなければならないと思うのです。 そしてそこでは、旧態依然とした「人間らしさとは何か?」という問いが、必ずや浮上してくるはずです。 なぜ、他人にやさしくしなければならないのか。 なぜ、人を傷つけてはならないのか。 なぜ、友情を大切にしなければならないのか。 なぜ、愛すべきものを愛さなければならないのか。 そういう単純な主題を本質的に追求するところから出発しなければ、現代の世界に対して有効なことは何も表現できないのではないか?そう思います。 このような主題を抱え持ちながら、同時に前向きな興奮と感情を呼び起こす、面白おかしいエンターティンメント。そんなものを作り上げたいと日々考えているのが、社会の片隅にうごめくいち変態であるところの不肖小生なのであります。 …変態の癖にしかも2週にわたって偉そうなことを書いて、生まれてスミマセン。という熱い思いで今後ともひとつよろしくお願い致します。 |